【全大学生へ】大学に8年通って残り2単位で退学した僕が大学生の休学費を全部負担する制度を始めます。#休学のすゝめ | HighBaller
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【全大学生へ】大学に8年通って残り2単位で退学した僕が大学生の休学費を全部負担する制度を始めます。#休学のすゝめ

シンガポールに移住してはや一週間、セブンイレブンとドンキホーテという日本のインフラに頼りっぱなしで日本の偉大さを感じております。大田です。

皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

今日は、そろそろ大学生が夏休みに入る準備、休学をする準備をする頃だと想い、我が社、株式会社ハイボールが誇る最強の制度「休学補償金制度(休学費を僕らが出すよ制度)」を広めるべく僕の大学8年間を書くのが一番いいかなと思いこの記事を書くことにしました。

書いてみると僕の大学8年間は割と長かったので、休憩しながら呼んでください。

入学前

僕は山口県の周南市という山口県の中では都会だが日本でみると田舎な場所に生まれました。

高校1年生の時に103回遅刻してしまい、僕はサラリーマンにはなれないなと思い、社長になることを決意しました。

高3の夏に「研究者になって宇宙人を見つけたい」と想い立ち、文系だったのですが理転しました。

結局受験は理系と文系どっちも受験し、どちらに行こうか迷ってたのですが、当時付き合ってた彼女が「研究者は多分向いてないから経営者になって研究者を雇って、研究が得意な人に宇宙人探してもらった方がいいんじゃない?」という天才的な言葉から地元の山口大学の経済学部に進学することにしました。

大学1年生

大学1年生は、大学生という憧れに溺れ、死ぬほど遊んだ大学1年生でした。あと、大学=海外旅行というイメージがあり奨学金で借りた入学金を勝手に使って一人でフランスに一ヶ月くらい行って親にすごく怒られました。

死ぬほどバイトして、死ぬほど遊んで、死ぬほどギャンブルして、単位を落としまくるという典型的な大学生活は1年生でやり切りました。

大学2年生

そんな大学生活に飽きていたのか大学2年生になってすぐに「万事屋(何でも屋)」を起業しました。

当時バイトが一緒だった何人かと何でも屋さんやりますというビラを何百枚か刷って路上でたくさん配りました。

怪しすぎると誰からも連絡は来ませんでしたが、もっと田舎だったら需要があるのではないかと想い、大学から車で40分も離れた中山間地域の3LDKの空き家を月5000円を借りて何でも屋さんをやりました。

当時地方の大学生が起業するのは、珍しく(山口県は特に)色々な新聞社に声をかけたら快く取り上げいただき「山口大学生、地方で何でも屋を学生起業」という見出しからたくさんの連絡をいただき僕の何でも屋さん人生が始まりました。

依頼の内容で一番多いのは「犬の散歩」「家の模様替え」で実態は地方に暮らすおじいちゃんおばあちゃんとの話相手です。

一番印象に残ってるのは「息子の結婚相手を探してくれ」という依頼です。

当時大学生だった僕の知り合いで結婚してくれそうな相手の伝手などなく、僕の女友達に言ってみてくれとお願いしたところ、そいつが働いていたガールズバーの営業をしてましい依頼人からブチギレされ、ビジネスは難しいなと痛感させられました。

そのほかにも『観光地でレストランを開くんだがバイトが誰もいないから集めて!』とか『祭りで屋台出すんだけど屋台頑張って盛り上げて』とか『地方の温泉の後継いないからやってくれない?』とか本当に色々なめちゃくちゃな依頼があってとてもいい人生経験になりました。

高校の時、経営者の自伝が好きでたくさん読んでたのですが、共通していることは早くから起業していることが多く、僕も20歳になる前に起業しようと何にもアイデアはなかったんですがとりあえず「何でも屋」でもいいからやろうと思ったのがきっかけです。

あとは、小さい頃から漫画とドラマが好きで「銀魂」「まほろ駅前多田便利軒」の影響も少なからずあった気がします。

大学3年生

大学3年生の頃には、都会では学生がインカレを作ってイベサーとしてそこそこ儲かってるというのを聞いて(今は思えばDJ社長とかがやってたやつ…)、山口の大学生を集めて300人くらいでサークル対抗大運動をやったり、街コン的なノリのクリスマスパーティーとかをやってました。

衝動的にやりたいことを思いつき、色々な人に何とか手伝ってもらってなんとか形にするみたいなのは昔から得意だったなと思う一方で、行き当たりばったりで計画性がないところは昔から変わってないなと過去を振り返りながらひしひしと感じております。

この時の夏に初めて、インターンという言葉を知り都会の人はどんなことをやっているのかという好奇心から色々なサマーインターンシップに行きました。

ヒッチハイクで東京に行き、飲み屋で仲良くなった人の家に住み込み、山口県との情報格差を感じ東京にでることを決意しました。

当時日本で一番給与の高いインターンを謳っていたワークスアプリケーションのインターンが福岡で開催されると聞いて東京から福岡に渡りました。

家は、東京で出会った謎の金持ちが福岡に使ってない家があるからそこに住んでいいよとインターンの1ヶ月間は僕はそこに住ませていただいていました。

しかし、なぜ僕とあまり年も変わらない人がそんなにも金を持っているのか疑問に思い聞いていてくと、その人は仮想通貨で稼いだ(当時Bitcoin5万とか)と教えてくれました。

今買えば絶対上がると消費者金融に行き借りられるだけ借りて全部Bitcoinを買えと怪しすぎること言われて、何言ってんだこの人はと思いながらBitcoinと言われるものの存在を知り調べるようになりました。

そこから技術的な面白さや可能性を知り多少買って売ってをして小銭を得たのですが、その売買するだけでお金持ちになった人にはあまり人間的に魅力を感じることができず、お金にも色々な稼ぎ方があるんだなということを知った大学3年生でした。

休学1年目

東京に行き、億り人お兄さんに会い世界の広さを感じた僕は、東京でこんなヤバいんだから世界はもっとやばいんじゃないかと思い世界一周をすることにしました。

大学3年の時に何でも屋と訪問販売と仮想通貨で世界一周できるくらいの金を貯め、まずは英語の勉強をしようと友達が日本人向けの英語学習スクールをフィリピンで立ち上げると言っていたので一人目の生徒として手伝いに行きました。

ボロボロのワンルーム4人のアパートみたいなところに住み、その一階の食堂にいるフィリピン人に英語を教えてもらってました。

英語は話せずともコミュニケーションは取れることを知りあまり英語は上達せずにフィリピン人と遊んでました。

そして、世界一周するのだから記録に残そうと世界一周ブログを初めて、毎日の記録をブログにし発信するということを開始し、アウトプットすることの楽しさを知りました。

自分の書いたブログを誰かが楽しく読んでくれてるという体験が今のYouTubeでコンテンツを作ることだったり、コンテンツを作れる場所を作りたいという思想に繋がっている気がします。

そんなこんなでブログを毎日書きながらフィリピンで活動している時に、僕の人生を変えるサービス「VALU」に出会いました。

簡単にいうと個人を証券化できるようなサービスで、自分自身をそのサービスに上場させることができます。

そのサービスに僕はハマってしまい気づけば持っていたお金をトータル100万円くらいVALUに突っ込んでました。

その後、YouTube史上今もなお最高の炎上と言われているヒカルやラファエルが起こしたVALU騒動が起こり、僕の持っていた個人の証券はほとんどゴミクズに変わりました。

それを経験した僕はヒカルたちへの怒りよりも、YouTuberというものの影響力の凄さとインターネットサービスはこんなにもすごいんだということへのワクワクが勝ち、世界一周なんかやめて日本に帰って起業しようと思って世界一周の一国目フィリピンで帰還しました。

日本に帰還し住むあてもお金もなかったので、インターンの説明会の時に出会った優秀な東大生が学生しながら塾を経営していていたのを思い出しました。

そいつに「東京帰るんだけど住むところない?」と相談したところ学習塾で使う部屋に授業がない時間なら住んでいいよと言われ、床に座布団を敷いて寝て、塾生徒が来るまでに逃げてという生活をしてました。

とりあえず生きていかないといけないので、インターンを探していました。

そこでエンタメ×ブロックチェーンの会社で当時DMMが初めて小型投資したとして話題になった『Onokuwa』という会社に出会い、そこでインターンをやり始めました。

当時はCLAPという通貨を作っておりエンタメに近いスポットに行くとCLAPがもらえるというサービスで、僕はそのCLAPがもらえる店舗を開拓しろというミッションから毎日下北沢のエンタメっぽい場所に飛び込みで営業するという日々でした。

当時スタートアップを本でしか知らなかった僕はこういう感じでスタートップは立ち上がっていくのかという実体験と当時ブロックチェーン×エンタメはかなり珍しかったので、色々な経営者の飲み会とかに連れて行ってもらいとても刺激的な日々でした。半年くらい働いて、そんなスタートアップを見てやっぱ自分でやりたいという気持ちが沸々と湧き上がってきました。

当時、世の中はマイニングブーム真っ只中で、電気代が無料のアゼルバイジャンという国を見つけ、そこでマイニングをすればめちゃくちゃ儲かるんじゃないかと思い、会社をやめ「アゼルバイジャン」に飛びました。

それと同時期にくらい自分でYouTubeを始めようと思いYouTubeも始めました。

今から5年前くらいですが、見るに堪えない動画ですが、人間最初はこんなもんだとインターン生とかにたまに見せています。何事も恥ずかしいくらいで始めるべきだなとこの動画を見て思い出します。

それで「アゼルバイジャンでマイニングするぞ!!」と意気揚々とアゼルバイジャンに渡ったのですが、驚くことに世界中から僕と同じ考えの馬鹿たちが集まっており、なんと再来月からマイニングを行うとことが違法になったということを知らされました。

なんということだと目的を失った僕はせっかくアゼルバイジャンという珍しい国に来たのだからYouTubeで発信するかと動画編集の勉強をしながら発信を開始しました。

そんなことをしているとお金がそこをつきなんとか生きていくためにあなたの名前を習字で書くよというパフォーマンスをして何とか生きていました…

隣の国ジョージアに行って雪山に登ったりする動画も撮ったのですが、一向にYouTubeは伸びず。

帰国日になり日本に帰国しました。スタートアップと動画編集を知った休学1年目でした。

休学2年目

3月に帰国したのですが、YouTubeにコンテンツをあげて友達とかが面白がってくれるのはすごく嬉しくて本格的にYouTubeやろうと思い地元の仲良い友達を二人東京に呼んで3人でYouTubeを開始しました。

半年くらいやって「中川でうなぎ釣って食べてみた」という動画が6,000再生くらいで、自分の演者力に限界を感じた僕は、月曜から夜ふかしをもじって日曜から早起きというコンテンツで渋谷の変な人にインタビューするというスタンスに切り替えそれは数十万再生されるコンテンツもあり割と伸びてきました。

そして、当時学ばせていただくためにスタートアップでインターンさせてもらっていたのですが、そこに高知県からAV男優になりたいという少年が会社に入ってきました。

彼はAV男優になることが目標でそのためには汁男優というものを経ないといけないということを僕に熱心に話してくれました。

これは面白いと思い渋谷の僕の家に住まいか?と交渉しAV男優になるまでの過程をドキュメンタリーにしようと思い、1発目の汁男優の撮影に密着するという動画を上げるとそれが1日で50万再生を超えYouTubeというプラットフォームの爆発力を知りました。

当時大学生だった彼は大学の教授にまで広がり怒られたので動画は非公開にしました。

アゼルバイジャンから帰国して1年でYouTuberとして100本以上は動画を作ったことで、動画編集が人並み以上にはできるようになったことから様々なところからお仕事がもらえるようになりフリーランスとして独立しました。

その頃に僕が勝手に師匠だと思っている「鈴木おさむ」さんのオンラインサロンを通しておさむさんに出会いました。

僕は昔からテレビっ子で特に「人にやさしく」というドラマが一番好きでどんな人が作ってるのかなと調べている中でおさむさんの存在を知り、テレビだけじゃなく本当に多様なエンタメを作っていて、そこの人から学びたいと思いサロンに入りました。

当時僕が一緒に住んでいた友達がいて、そいつは今はテレビの制作会社でディレクターとして働いてるのですが、僕は「これからはYouTubeだ!」そいつは「テレビはまだまだ捨てたもんじゃない!」と真逆の主張をしていて、その関係を面白がってもらってそこからおさむさんのオフィスの一角を間借りさせていただき、たまの映像のお仕事もいただきながら僕は起業の準備をしていました。

休学3年目

起業するにしても、最初の事業を何にしようか考えだしました。

最初の事業は確かフリーランスでキャッシュフローのしんどさを感じていたので、そこを解消するような事業でした。

前職で一緒だったエンジニアの人やデザイナーに声をかけプロトタイプを作りつつ触ってもらうようなタイミングでハイボールが好きだったという理由で「株式会社ハイボール」を作りました。

そのタイミングでYoutubeも開始しようとAV男優を目指す彼に声をかけ、YouTubeを再始動しました。

当時YouTubeで「1万円企画」が流行っていたので「大塚のピンサロに1万円で5回連続行ってみる企画」「Vlog風に地方の100年続く遊郭に行ってレビューする」ようなYouTubeでしかできない企画をやっていて、今では当たり前ですがその頃のYouTubeにはあまりそういう企画はなく僕らが紹介するお店に大量に人が行くような現象になり多くのお店を紹介するような活動をしていくようになりました。

ある日のおさむさんのオンラインサロンで、月に一回面白いゲストの方を呼んで対談的なことをされていた時期があったのですが、ある月のゲストでゴットタンなどを作られてる放送作家のオークラさんが来られた回がありました。

その時にお二人が話してた内容で、めちゃくちゃ感銘を受けた言葉があって「若いうちに自分が演者なのか裏方なのかを決めたほうがいい。」ということを言われていて、お二人とも状況は違えど自身が演者としてやってみたことがあり、そこで自分は演者じゃないということを感じたそうです。

その言葉から裏方になることを決め、結果として裏方の方に才があることに気づけました。

そして「やりたいこと」「向いてること」は違うという言葉はありふれてますが、自分のそれを気づくことは想像以上に難しいということを知れた休学3年目でした。

休学4年目

そこからYouTubeでは、全国の夜のお店を紹介するような動画をあげていき、日本中のお店から紹介してくれと声がかかるようになっていました。

ですが、そのタイミングでコロナに差し掛かり僕らが紹介してたような店舗が倒産し働けない人が続出する中で何かやろうと思い「フクロトジ」というサービスを立ち上げました。

僕らの視聴者との親和性も高くすごい勢いで広がっていたのですが、YouTubeの規制の波に逆流していたのでYouTubeはBANされ、ここでは言えない色々なことが重なりサービスを閉じないといけない事態になりました。

資金調達はほぼ行わず自己資金でやっていたのですが、サービスの維持費や開発費は嵩み社員の給与を払うために僕が友達にお金を借りて来ては払うということを繰り返しました。

それを毎月繰り返してるうちに気づけば個人で総額1000万くらい借りていて、もう誰も貸してくれる人はいないという状態まで追い詰められていました。

この時は本当にしんどくて先が見えず、でもなんとかしないといけないという使命感だけあり、スタートアップという重圧で鬱になる人や自殺してしまうような人の気持ちが死ぬほどわかりました。

家賃も払えないので、オフィスのソファで寝て何とかしないといけないので、ずっと働かないといけない。そんな生活がしばらく続きその頃の記憶はあまりないです…

大学4年生

そんな中、4年の休学期間が終わり、僕は大学4年生になりました。

このまま東京にいたらおかしくなると思い山口に家を借りて基本的にはリモートで仕事をしてたまに東京に行くという生活をしていました。

大学に行ってる場合ではないのでほとんどコメダ珈琲に朝から夜中までいてむしろ東京を離れたことで仕事の生産性は上がってきた気がします。

よくどうしようもなくなったら「逃げろ」とスタートアップ界隈では言われていて、その言葉に救われたのですが、距離をとって環境を変えるだけでも全然気持ちが違うのでもしもこの時の僕と同じ状況のスタートアップ起業家が見ていたら「逃げる」ことを全力でおすすめします。

そんな中、何かしらで売上を盛り返さないといけないと模索していくうちに、自分たちの強みを整理し、結局YouTubeやTikTokなどのSNSを伸ばすことが一番得意だということに立ち帰りました。

そこから、周りの方々に声をかけなんとかその事業が黒字化し会社が潰れることは免れました。

その年の6月に売上が200万いかなかったらもうキャッシュが回らないから終わりという時に当時残ってくれていた数人で突破した時の嬉しさは忘れられなくて、全員にガッツポーズしながら喜べた感動は人生の宝だなと思ってます。

その後の飲み会は本当に楽しくて、この感動を僕は生きている中で何回味わえるかわからないのですが、それが忘れられなくて、色んなことをどんどん立ち上げて自分でプレッシャーのど真ん中に自分を持って行ってるのかも知れません。

まとめ

それから、事業が成長していきお金にも余裕が出て来たので僕は山口と東京を往復しながら大学に通っていて絶対に卒業する気持ちでいたのですが、残り2単位たりず卒業できませんでした。

僕は卒業できませんでしたが、できるんだったら卒業したほうが絶対にいいです。

僕はシンガポールに移住するときに大卒がなくて苦労したので、海外行くなら卒業しといた方がいいと思います。

休学して一番よかったことは「自分の才能の形」を理解できたことです。

自分の才能を理解するのは想像以上に難しいです。

なぜかというと才能は思いもよらないことに宿っていることが多いからです。

なので、色々な経験をしないとそこは見えてこないし、その経験をせずに就職してしまうことは勿体ないです。

企業的にも、自分の才能の形をわかって成果を出してる人の方が活躍してもらいやすいです。

休学することでその才能を見つける時間に費やせることで働いてからの爆発を最大化できると思います。

なので大変長くなりましたが、「休学費を僕らが出すので、僕らの会社で働きませんか!」これを伝えるために壮大な分量の記事になってしまいましたが、書き始めると止まらなくなってしまいここまで来てしましました…

僕は今日本の会社とは別にシンガポールにも「HIGHBALL PTE. LTD.」という会社を作りそちらではWeb3×VTuberの事業「Vhigh!」を元ANYCOLORでCOOされていた岩永さんと一緒に立ち上げています。

先日東大の松尾研とAIの共同研究をすることを発表し、新しいテクノロジー×IPというところで実験的なことを色々やっております。

日本の方のHighBallはホールディングス化しまして、子会社でTANSANという会社を作り縦動画を中心にグローバルなコンテンツを作っていきたいと思っております。

もともと社員をやっていた「ドレッド山田」に広報にならないかと声をかけ開始から6ヶ月で全SNSのフォロワー数は250万人を超え再生回数も10億回を超えています。

これも大学休学中に自分の才能を可視化できたからできることかなと思います。

他にも様々なタレントをHighBallではサポートしていて、今では僕よりもその才に溢れてるメンバーもたくさんいます。

そんな経験を半年でもしてほしいので、少しでも上記の何か興味があり、休学してインターンしたという気持ちが芽生えた人は僕らと一緒に働きましょう。

いきなり休学はやりすぎならインターンしてから考えてもいいです。僕は才能ある若手とたくさん働きたいです!!

長い文章を最後まで読んでいただきありがとうございました。

大田

大田 卓矢

CEO

大田 卓矢

株式会社ハイボール CEO 大学在学中、19歳で1社目を起業。 地方で複数の事業立ち上げをきっかけに事業作りの楽しさを知る。 大学を休学し、Onokuwa・KinecaなどのIT企業のインターンを経験後、フリーランスとして独立。 半年後に株式会社ハイボールを創業。伝説の会社を創ることが目標です。